世壱が社会で、社会が世壱(西尾地博)

2021下半期記事, シリーズ2:面白人にインタビュー, 編集の教室

僕は最初世壱さんに対して(僕と真逆だな…)って思っていた。
なぜなら世壱さんはみんなのためになる活動を行っているのに対して、僕は自分のことばかり考えて行動しているからだ。しかし、よく考えてみると、似ていた。

似ていたのは、世壱さんは社会活動を、僕は勉強(の勉強)を、好きだからやってるという点。僕は、社会活動に対して好きでやる人なんていないだろうと思っていたが、これは僕でいう勉強(の勉強)を好きでやってるのと一緒だと気づいて驚いた。

好きでやるということは、それを努力とも挑戦とも思っていない、意志の必要ない行動であり、好きでいる限り原動力が無限にある。どんな人も、自分の好きな食べ物を食べる時に「がんばって食べるぞ!!」などと思わないはず。それと同じことが世壱さんで社会活動について起きているのだ。自分の行動を食べることに喩えたが、これはなぜ行動をしないかにも当てはまっている。

食べない理由というのは、その食べ物が好きじゃない、既に満腹である、その食べ物を知らないなどが考えられるが、行動に当てはめて言えば、その行動が好きじゃない、その行動をする暇がない、行動するものだと思っていない、となる。

3つ目はピンと来る人も少ないだろう。具体的に言うと、多くの中学生は勉強の勉強はしてないだろう。これは勉強が身近であるにも関わらずしていないという点で、勉強の勉強をするものだと思っていないと言えるのではないだろうか。
好きな食べ物は人それぞれだし、色んなものを食べるのも、1つの好きな食べ物を食べ続けるのも僕はいいと思う。
大人になって初めて良さに気づく食べ物だってあると思う。娯楽はお菓子みたいなものだろう。体に良いものも時には食べなければいけない。食わず嫌いを直すために食べたことがないものも食べてみると新しい発見があるかもしれない。

ところで、世壱さんへのインタビューでは、自分事という言葉がよく出てきた。
「自分事」ってなんでしょう。

例えば、ある人は家族に災難が降り掛かっても、自分じゃないからと思って悲しくならないだろうし、ある人は見知らぬ誰かが災難に降りかかった時に、とても悲しくなるかもしれない。

これが自分事か他人事かの差である。
自分事とする意識の強さは気まぐれだ。

普段、お釣りを募金しない人も機嫌の良いときには募金するかもしれない。この行為に対して「偽善であって自分事の意識が強い訳ではない!」と思う人もいるだろう。しかし、偽善というのは自分のために行うもので、自分事としての行動が偽善なのはおかしなことではないのである。また、自分事としての様々な規模は共存している。

例えば世壱さんは自分自身はもちろん、家族、地域、社会に対する自分事とする意識あり、どれも強かった。これは世壱さん以外の人にも言えるが、地域や社会に対する自分事とする意識は弱い人が多いかもしれない。

僕は場合はどうだろう。

前述したように世壱くんと話す前、僕は自分事とする範囲は狭いと自分で思っていたが、今考えると広いと思う。

僕は将来的に日本の学習体制を改善したいと思っているからだ。
また、逆に地域に対して自分事と思う事がほとんどない。地域のイベントにあまり参加していないのだ。しかし、狭い範囲の自分事というのが、物理的な距離だけに限らないと僕は思う。具体的には、境遇が同じ人が狭い範囲に含まれると思う。僕で言う他の中学生等である。
僕は他の中学生に勉強を教えたいと思っているので、そのような意味で狭い範囲も自分事として捉えていると言っていいだろう。