自由を不自由に変える関数(鴨谷惟名世)

2021下半期記事, シリーズ1:不自由, 編集の教室

小学校から探究型の学校に通っていて中学校も探究型の学校に入ったけど、そのころは生き物への興味があったし、たくさん生き物が家にいた。でもいざとなると自分のやりたいことや探究したいことって何だろうということを考えていた。周りの人は絵をかいたり写真を撮ったりしているけどそれがいいのかもわからない。午後に2時間そういう時間があってその時間を自分がやりたいことに結局使えないという不自由がある。
探究がなんなのか、自分は探究しているのか?と考え始めたのは3、4年生の頃で、それまではなんとなく調べてまとめてを繰り返していたけど何かをきっかけに探究って何?と考えていた。
逆に今行っている学校で絵を描いたり写真を撮ってる人は楽しくやっているのか?興味があるからなのか?その人にとって探究は何なのか?
「探究」をしているとその人たちが言っているのを聞いたことがないし、探究をしなきゃいけないわけではないはず。

ある人が自分がやりたいことを探すのも探究なんじゃないかと言ってくれて、探究は一つのことを指すわけじゃないんじゃないか?
逆に探究という言葉を使い、探究を語っている人たちは探究を何だと思っているのか?でも探究を語る人たちの答えは全て同じにはならない。それは探究を語るような人は一つ一つの考えを持っているような人だからなのか、探究とは何か本当はわかってないからなのか、あるいわそこまで探究を深く考えてないからなのかと考えると、そもそも探究型の学校とはどういう学校のことを言うのか?
自分が探究していると認識していない時でも友達と遊んだり、家で他のことをしていてもなんとなく楽しい時間もある。

実際ほとんどの中学生は探究型の学校に行っていないはず。周りの人が探究とかと言っていたり探究を推進する環境だったりしたけど別に自分は探究しろと言われてるわけでもなく、探究しなきゃいけないわけでもない。探究とは何かの答えを探さなきゃいけないと思っていたのも、探究しなきゃいけないと思いこんだのも、学校や周りの環境ではなく自分自身だったのか?
周りが何かをする中、自分はやりたいことがないようなときは焦りを感じていた。できたら今できないことはしたくない。
でもそうしたら何をするのかというのを考えられるかもわからない。しなきゃいけないと思い込む事やそれによる不安。
これが自分の感じていた不自由なのか?

探究も探究するものなのかもしれない。