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自由と不自由の質量保存の法則(西尾地博)

僕は中学に入学してから、YouTubeの影響で、7回読み勉強法、色塗り勉強法、10分休憩勉強法、それ以外に筋トレに使われるピラミッド法を学習に応用したりなど、いろいろな学習法を実践してきました。

自分なりに効率の良い学習法を身につけ、定期テストや学校単位で受ける模試の成績がすごく良くなりました。 学習法について学んだ僕は、教育に興味を持ったし、今の学校で行われている受動的な教育に疑問を持ったりしました。「授業中は先生が話すから、生徒は話すべきではない」といったことは、合理的ではないと僕は考えました。学校に費やす8時間は僕にとって時間の無駄になりつつあります。
僕は、授業中に先生の説明をみんなにとってわかりやすいように言い換えたり、より効率的に答えを出せる解法を説明するなど、自分の可能な限り能動的に活動していました。それは、2年の時の数学担当のY先生の影響が大きいように思います。Y先生の授業では能動的な学習が求められました。それが僕に能動的な学習への欲求を与えたのかなと思います。3年生になり、Y先生の授業がない今でもその行動が継続されているのは、僕がその先生のことが好きで、その先生を意識して行っているんだと思います。

クラスメイトにとって僕は異質のようで、「そんな解き方しなくてもいいじゃん」などの 声もありました。自由は良いことのように思われているし、僕もそのように書いてきたが、完全な自由においては秩序がなく、他の人の自由によって、自分の自由が侵害されるようになるのではないか、と僕は考えた。言い換えれば、自由とは総量が決められたものなのではないかと考えた。僕のことで言えば、僕が学校のことを不自由だと認識し、学校に行かなくなったとする、それはもちろん、学校で僕と関わるクラスの人や同じ部活の人の不自由になるだろう。それだけでなく未来のぼくにとって就職などにおいて不利になるなど、不自由となるだろう。

 他に、僕は自分の考え方によって不自由が、自由になりうるのではないかということも考えた。ぼくは今学校のことを不自由と認識しているが、学校を不自由と認識していない人もいる。ぼくも考え方次第ではそのようになれるのではないか、具体的には、ぼくが学校を不自由と認識するのは、ぼくが学校の授業で取り扱われる内容に興味がないこと、授業が非効率的であることが原因であるため、その内容に興味を持つこと、効率を上げるように能動的に授業を受けることで不自由ではなくなるのではないか、ということだ。しかし、1つ目の仮説が正しいとすると、興味を持つことなどによって不自由から抜け出せたとしても将来になって不自由となってしまうことになる。様々な分野の学習を満遍なく行ったことによる知識の浅さなどがその不自由として考えられる。
自由とは何か、考えるほどわからなくなってきた。



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