タニタに尋ねて三千字(西尾地博)

2021下半期記事, シリーズ3:面白企業にインタビュー, レギュラーコース, 編集の教室

僕がTANITAの久保さんへのインタビューをさせて頂いて考えたことが5つある。

・度が過ぎるのは良くない。
・考えるほど幸せになるかも。
・プラスもマイナス?
・健康は延命。
・100%のことは無い。(矛盾してる?)

度が過ぎることについて
僕は健康すぎるのは逆に不健康だと思う。(それは「健康すぎる」なのか?)というのも、自分自身、健康の象徴であるスポーツを行う中で、たくさんの不健康を感じてきたからだ。僕は小学生の時陸上をやっていて、その時怪我をしたが、ただでさえ身体的な不健康を被っているのにも関わらず、期待に応えられず憂鬱で、精神的な不健康さもあった。あまり健康を求めない方が健康なら、「ザ・TANITA」のような製品は逆に不健康かもしれない。

幸せと思考の度合いについて
僕は同じことをするにしても、どこまで考えてしているかが重要だと思う。例えば、夜更かしをするにしても、「夜更かししちゃった」のと「わざと夜更かしした」のでは、夜更かしした人の満足感が全然違うだろう。どっちも不健康なことをしてるのに、心の健康の差が出ているのだ。僕は、折角なら心が健康になる方を選びたいと思う、皆さんもそうだろう。では、健康以外の場面はどうだろうか。僕の学校には優等生な感じの子が多い。僕は昔、真面目な要素を含んだ優等生だったが、今は、先生の言うことをしっかり聞くタイプの「ザ・優等生」という感じではない。でも、自分のことを優等生だと思っているし、先生からの信頼を感じる場面もある。昔の僕のような真面目な優等生は、打算的に優等生になったわけではないだろう。しかし、今の僕が優等生なのは主に打算的な理由だ。それは、たまに悪いことをしてしまっても、甘めに見られるというメリットを目的としたものだ。(先生ごめんなさい)
恐らく優等生には、優等生でいること自体が目的となっている人が多いのではないだろうか。しかし、僕はその動機は弱くて脆いものだと思うし、続けることにストレスが出てくると思う、少なくとも昔の僕はそうだった。同じ優等生であるにしても、考え方によってストレスを回避出来るのである。

プラスもマイナスについて
僕的に体の健康は心の不健康だと思う。前述したように、アスリートは精神的負担が多少あるだろうし、喫煙者もタバコによって気持ちよくなるなら、それは心の健康の維持に繋がっていると思う。つまり、行動自体にはそもそも良いことか悪いことかの概念はないのだ。
これに「それならばなぜ法律などのルールがあるのか」と疑問を持つ人もいるかもしれない。これは他人が関係することで、ルールが生まれている。タバコを例にすると、タバコを吸って身体が悪くなり、自分が困るだけなら、タバコはまだ何も悪くない。しかし、この時期に病院などにお世話になるなどしたら、それは間違いなく迷惑にはなっているだろう。
偏見なのだが、プラスもマイナスという考え方は、就活生に持っている人が多そうだ、短所を聞かれた時に長所になりうるものを伝えたりするのは、マイナスからプラスの転換を行っているということだと思う。プラスもマイナスというのは、思いやりにつながることが多々ある。僕はあまり応援をしたくないタイプだ。応援されないと頑張れないような人達を応援する必要がないと思っているからだ。これが思いやりになるときがある、というのも、頑張っている時に「頑張れ」と言われるのが嫌、つまり応援されなくても頑張る人が一定数いるからだ。辛辣に聞こえることも優しさになりうることがあるのだ。

健康は延命、について
僕は健康は延命だと思う。TANITAの久保さんが言っていたのだが、健康はつまらないし、美味しくない。確かにそうだと思う。僕が思うに、健康は辛さの前借りだ。タバコは吸っている時は気持ちが良いと思うが、癌になるなどしたら、すごく痛い。自転車に乗っていて、ヘルメットを外したまま乗るのはすごく気持ちが良いが、どこかに頭を打つことになったりしたら、すごく痛いと思う。僕の学年の国語で最近、安楽死がトピックになっており、僕は死について考えることが多くなった。僕は苦しまずに死にたい。というか、死ぬまで苦しみたくない。そう考えると、タバコをたくさん吸って、お酒をたくさん飲んで、痛みが出てきそうだったら安楽死するというのが、良い選択肢なのだろうか。

100%について
僕が思うのは100%健康な行いはないということだ。例えばランニングでは、怪我の可能性も考慮した時、健康度が90%ぐらいで、不健康度は10%ほどあるのでは無いだろうか。体に害しかないタバコも心の健康には繋がっているから純度100%の不健康だとは思えない。
僕が思うのは、単に2種類に分けられる訳では無いということだ。雑に2種類に分けられているのを知ると僕は少し怒る。
中学校で、学級長になることを例に取ってその怒りを説明したいと思う。僕にとって、学級長になることは能動性50%で受動性50%ぐらいだと思っている。というのも、学級長というのは、その募集の場を与えられた上で、しかも誰かがならなければならないという状況で決められるからだ。「あとはなるだけ」の状況で学級長に立候補するのはあまり能動的とは言えないのではないだろうか。自分で調べ、その募集があることを知り、誰かがならなければいけない訳でもないが立候補する、と言ったことの方がよっぽど能動的だと僕は考える。しかし、学校ではチャレンジだとか、積極性があるとか言って、学級長になることがあたかもすごく能動的なことであるかのように評価している。これでは、評価された子がそれ以上の能動的なことを知らないままでいるのではないだろうか。
他に2種類に雑に分けられているものとして好き嫌いがあると思う。ここでは、行動に対する好き嫌いと人に対する好き嫌いについて考える。まずは行動についてだ。僕はどれだけしたいかと、どれだけするべきかが行動に起因していると思う。したいしするべきなものは当然誰もがするだろう、また、したくないしするべきでないものは当然しないだろう。ではしたいけどすべきでないもの、したくないけどすべきなものはどのようにするしないにつながるのだろうか、僕はここで、どれだけしたいかvsどれだけするべきかの戦いが生まれ、それによってするしないが決まると思う。
次は人に対する好き嫌いだ、みなさんは人に対する好きと嫌いを足し算するタイプだろうか、ちなみに僕は足し算しないタイプだ。というか僕はそもそも人そのものに好き嫌いがない、ある人について考えたとき、その人のこのような点は好きだけど、このような点は好きじゃないというような、好きと好きじゃないを別々のままに考えている。例えば、よく考えて行動してくれるとこは好きだけど、怒ると怖いところは苦手だというような感じだろうか…………んー、でもこの場合は、「よく考えて行動してくれる」ことに対して、好きと決める、雑な分類をしたってこ……?……になるのか……?……じゃあ人に対し単純に好き嫌いを決めるのと一緒……?……んん……?……そもそも……さっきプラスはマイナスって言ったから…………んん、じゃあ、好きと決めれたの……?……ということはそこで割合が…………?でもそれもどっかで雑に2種類に分けられて…………あ、話が戻ってるぞ?…………。