この世界に、不自由などない。(山田 路依)

シリーズ1:不自由, 編集の教室


これまでの人生においての不自由を考えた時に一つ浮かんだ。「対人関係」だった。
自分のことは制御が効くのでどうにでも出来るが、他人ばかりはどうしようもない。
これまでの人生いつもそうだった。低学年はずっと虐めに遭い、教師に暴力を受け散々な日々。
高学年になってから、物理的な痛みがなくなる代わりにクラスには気の合う人間もいなくなる。
周りからは空気同然の扱いになった。
無自覚なのが何より厄介だ。電車にすれ違う人に興味を示さない様に、彼らに悪気などないのだ。

小学校で一番覚えている対人関係が嫌いになった出来事がある。
高学年は低学年と触れ合う機会がある。卒業生となればその低学年と私たちでペアを組んで貰い送りだしてもらう風習があった。
…….低学年の子は誰一人私と組みたがらず、終ぞ私は誰にも送りだして貰えず卒業した。
その頃は友達もそこそこいるつもりだったが、その相手からすれば私の価値はこんなものなのかもしれない。
そう思うと誰も信じられなかった。あたかも現在の人間関係の本質を悟ってしまったかのような気分だった。

今も高校が始まって既に4ケ月が経つというのに、誰とも一言も交わさず帰宅する日々。
ストレスは溜まりゆく一方だ。

最低な人間関係の価値観、思想を持っているが、こんな私にも大事な人はいる。
去年、習い事である空手の後輩と一緒に帰路につく機会があった。彼女は5年同じ習い事をする仲間である。
彼女は家の都合で日本とマレーシアをまたいでいるが、その度に失恋して日本に帰ってくる。
今回も失恋して帰ってきたようなので話を聞いていたが、こんなに失恋することはそうそうないだろう。
毎回毎回、誰に失恋しているのか気になるあまり彼女に問いかけた。
彼女の口から出てきた言葉は「貴方によ。」だった。
心底驚いた。私はそんなことを言われるような美男でなければ、彼女の命を救ったスーパーヒーローでもない。
ましてやこんなことを言うように脅迫の類の事をしたわけでもない。彼女自身の意思でその言葉が発されることが不思議でしょうがなかった。
当時は夜遅く、本人も赤面してしまったので、その場はそこで別れてしまった。が、そんなことはどうでもよかった。
あんなにうまくいってないと思っていた対人関係だったが、知らない間に一人の女の子とは恋人寸前まで行っていたらしい。
その奇跡的な展開と有難みだけが私の思考にあった。

その事実から私は思う。仮に私が他人を操ることが出来、友達を大人数作れたとしてそのどこに楽しさがあろうか?いや、後に残るのは虚しさだけだろう。逆に言えば、操れない他人が自分に共感、好意を抱くということがどれほど奇跡的か。そこには計り知れない幸福があるだろう。不自由だからこそ幸福になれることもあるのだ。
万一そんな人間が現れずとも居場所を変えればいいだけのことである。私も学校では最底辺だが習い事の空手ではあんなに上手くいったのだから。不自由も視点と手段を変えれば不自由ではなくなる。自分にとっての不自由、とは今や人生の醍醐味の一部でしかないと思っているし、そもそも不自由などないとすら言える。